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桑原先生がご退職されました

1980年より42年という長い間、本学で教鞭をとってこられた桑原隆行先生が定年退職の日を迎えられました。当学科教員が桑原先生のご退職に寄せて執筆されたお言葉を掲載します。桑原先生の教育理念とお人柄が伺えます。


井関麻帆(2022)「桑原隆行先生のご退職に寄せて」『福岡大学人文論叢』福岡大学, 53(4).


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昭和、平成、令和という時代の流れのなかで変化する教育現場と向き合ってこられた桑原先生へ贈る餞の言葉を、本学に赴任してわずか4年、教員歴にして桑原先生の1割ほどの私が書かせていただいてよいものか葛藤もありましたが、これまでお世話になった感謝の気持ちを込めて筆を執りました。

思い返してみると、本学における私の教員人生は桑原先生とともに始まったと言っても過言ではありません。福岡大学から最初に届いた連絡も、初めてお目にかかった福岡大学の先生も、当時フランス語学科の主任を務められていた桑原先生でした。面接を前に緊張している私に笑顔で語りかけてくださり、和やかな雰囲気のまま面接を終えることができたのも、ひとえに先生のお心遣いのお陰です。そして、地縁も血縁もない福岡で新たなスタートを切ろうとしている私に、「福岡に来ると、福が来る」、「来福」という言葉を教えてくださり、背中を押してくださいました。

赴任後も新しい環境で不慣れな私を気にかけてくださり、授業や学内業務のことなど親身になって相談に乗ってくださいました。また、次年度初めてゼミを担当する私を「桑原ゼミ合宿」に誘ってくださり、「案ずるよりも産むが易し」の言葉のごとく、体験を通して不安を和らげてくださいました。普段の授業とは違い、鹿児島の指宿という非日常的な場所で行われた合宿を通して親睦を深めることができ、学生間、さらには学生と教員の信頼関係のようなものが学習意欲の向上に繋がるのだということを学びました。

桑原先生は、これまで多くの翻訳出版を手がけられていますが、ゼミの学生はその一端を体験することができます。羨ましい限りの贅沢な授業ですが、日本語に翻訳されていない作品を学生と一緒に訳していく作業は、決して簡単なことではありません。お手本のない、答え合わせができない状況を、先生は「完成形がないから面白い」、「教員自身が楽しまないと学生にも楽しんでもらえない」と笑って話してくださいました。どんなに難しいことでも、視点を変えれば楽しむことができる。完成しないからこそ面白い。これから社会に出ていく学生にとってとても大切なことを、授業を通して伝えられているように感じました。先生ご自身も「教員を40年以上続けられたのは、到達点が見えないから」、「完成しないからこそ常に挑戦し続けられた」と教員人生を振り返っておられ、輝かしい業績にも満足されることなく、常に向上心をもって取り組んでいらっしゃるお姿に感銘を受けました。

 学生と経験を共有することを大切にされている桑原先生ですが、「経験を積むことは幅を広げること」、「自分の幅が広がっていれば、日常の些細なことをきっかけに名案を思いつくことがある」という信念が、学生に対する真摯な姿勢から伝わってきます。いろいろな経験を積むことで、足早に過ぎ去っていく出来事や出会いがやがて線となりつながっているのだと感じられたり、偶然だと思っていたことが実は必然だったと気づかされたり、時にはそれをきっかけに人生を大きく変えるような着想を得たりするのだということを、先生は実感されていたのだと思います。

先生が翻訳されたパトリス・ルコントの『ショートカットの女たち』には、「ルコントで始まった私の休暇は最後に偶然のようにルコントにつながり、ルコントで終わることになった」と「訳者あとがき」に記されています。休暇を過ごされたパリのホテルで、何気なくつけたテレビに映るルコントの姿が「嬉しい偶然を暗示していた」と気づかれたのは、パリを離れる日、シャルル・ド・ゴール空港で「お土産でも買おうかと店に入った瞬間」でした。平積みにされて並ぶ「美しいショートカットの女性に釘付けになった」先生は、ホテルの一室で特に気に留めることなく流していた番組が、映画監督パトリス・ルコントが初めて手がけた小説『ショートカットの女たち』を紹介していたのだと、点と点がつながり偶然が必然となっていく瞬間を見事に捉えられています。そして、「ショートカットの美女と邂逅して一緒に連れ帰る幸運」は翻訳出版という形で実を結び、点から線へ、線から面へとつながっていったのです。経験を積み、自分の幅が広がっていれば、偶然を必然に変えることができるのだということが、先生の体験談から伝わってきます。

先生が綴られる文章を読めば一目瞭然ですが、これまでに読んでこられ血肉となった書物は膨大な数に上り、研究室には世紀をまたいだ幅広い分野の作品が所狭しと並んでいます。人生で経験できることには限りがありますが、小説を読んだり、映画を観たりすることで、登場人物の人生を疑似体験することができます。数多の作品に触れ、その登場人物の数だけ人生を疑似体験されてきた桑原先生だからこそ、些細な出来事を人生の大きなきっかけへと変えられる力をお持ちなのだと思います。

 それは同時に、文学ひいては人文学こそ、人生をより豊かにするために必要な学問なのだということを教えてくださっているかのようでもあります。後進のひとりとして先生が示された道を進み、学生に伝えてまいります。

本学における私の教員人生が、桑原先生との「出会い」から始まり、今こうして筆を執らせていただいていることも、いつかきっと線となり、面になる日が来ると信じています。その瞬間を見逃さないよう、「経験」を重ねながら楽しみに待ちたいと思います。

桑原隆行先生のこれまでのご指導に深く感謝しつつ、餞の言葉とさせていただきます。



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